Dreaming Is Living

LA在住の音楽ライターが夢実現のヒントを綴ります

ジョニー・デップ(of ハリウッド・ヴァンパイアーズ)

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あのジョニー・デップが、ロック・バンドを始めましたよ。この写真右隣の怪しいルックスのアリス・クーパーと。
しかももう一人のメンバーは、私が高校生の時から一番好きなギタリスト、ジョー・ペリーエアロスミス)です。そのバンドの名前は、ハリウッド・ヴァンパイアーズ
元祖ショック・ロッカーのアリス・クーパーが、
1970年代にロサンゼルスのサンセット通りにある「レインボー・バー&グリル」で夜な夜な飲んでいたザ・フーやザ・モンキーズのメンバーや、ジョン・レノンリンゴ・スターといった大スターの飲み仲間につけたグループ名をとって、
あの世にいってしまった仲間達の追悼の意味も込めて結成したバンドです。

9月16日、その「レインボー・バー&グリル」の隣にある40年の歴史を持つライヴ・ハウス、ロキシーで、彼らは初のライヴを行いました。
このライヴが、やばかった!
この3人に元ガンズのダフ・マッケイガンマット・ソーラムが加わってのショウで、さらに衝撃のゲスト続出。(レポートは来月号の『インロック』に掲載されます)
ジョニーはかつてロック・バンドをやっていて、
サンセット通りの有名なライブハウス、ヴァイパー・ルームのオーナーだったこともあるのですが、ギタリスト姿も素敵でした。

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ジョニー・デップを好きでない人なんかいないんじゃないかしらと思うぐらい、
ご多分にもれず私もジョニーのファンです。美しくてヘンなところが素敵。
そんなジョニデに取材をするという天地がひっくり返りそうな事態が、2011年に起こりました。
映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』のプレミア前の日本用の取材で、
音楽ライターの私に一時的に降って来た、某スポーツ新聞社さまの依頼でした(ありがとうございます)。
丁度震災後の取材だったので、記事は映画の出演者達が日本に向けて送った応援メッセージがメインになり、ジャック・スパロウ役のジョニーの囲み取材で聞いた質問の答えは、記事には入りませんでした。
いつかどこかで出せたらいいなと思っていたので、この機会に。

 

ーー今回の『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』もまた、子供に夢を与える内容になっていると思うのですが、子供に夢を与えるような映画に出ることは、あなたにとって大事なことなのでしょうか?

僕は子供の頃から変わっていて、ういてたんだ。だから僕は、無法者とか変わり者の役を演じるのが好きなんだ。僕がそういうキャラクターを演じることで、変わっていてもいいんだよ、っていうことを伝えられたらと思ってる

 

やはり彼は素敵でした。すごく控えめで、静かに話す人でした。
この答えをあとでレズ坊友達に話したら、「それってうちらに言ってくれてるじゃん!」と大興奮。「だよねー!」と喜び合いました。
別にジョニーは性的マイノリティのことを言っていたわけではなくて、
世の中のマジョリティの枠からはみ出てしまうあらゆる人達のことを言っていたのだけれど、私には特に染みる言葉でした。

 

変わり者といえば、音楽業界の中でも特にロック・スターはヘンな人が多いです。ヘンな人しかいないかも。
近年そういうスターがいるロック・バンドが激減してしまって寂しいなと思っていたところに、いきなり究極のスーパー・バンド、ハリウッド・ヴァンパイアーズが誕生しました。基本的にカバー・バンドなので、クラシック・ロックやハード・ロックが好きな人にとっては至極のバンドです。
アルバム『ハリウッド・ヴァンパイアーズ』も発表されたので、チェックしてみて下さいね。

 

Dreaming is Living!

あっという間に9月最終日。よい一日をお過ごし下さい!
 
 

ケリー・クラークソン

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LA時間の8月19日(水)、
元祖アメリカン・アイドルケリー・クラークソンのステープルズ・センター公演(オープニング・アクトはペンタトニックス)を観に行きました。
このショウの最中、「ピース・バイ・ピース」という曲を披露する時に
ケリーが感極まって泣き出してしまい、慌てて「モロ妊婦だわ〜!」と、突然妊娠を発表するというサプライズがありました。
次の瞬間、約18000人の観客が爆発的な大歓声を挙げて、ケリーを祝福。とてもスペシャルで、涙腺が緩む場面でした。

「ピース・バイ・ピース」は、今年3月に発表された同名のニュー・アルバムに収録されている、とてもパーソナルな歌詞の曲。

アルバム・タイトルにもなっているので、新作の中で一番ケリーが思い入れがある曲だろうと思っていたのですが、予想通りケリーはこの曲をやる前に、
「これは私にとって特別な曲で、この曲のメッセージをみんなに聞いて欲しいから、ピアノ伴奏だけで歌うことにしたの」と語り始め、子供の頃、ロールモデルになる親がいないと、愛されることを信じるのが難しくなってしまうこと、
それでも今の夫に出会って、信じることができるようになったことを語り、

愛されるためには、まず自分を愛することが大事だと思うの
と締めくくって、この曲を歌い始めたのです。

すると間もなく、ケリーは声を詰まらせてしまいました。泣きそうになっていたのです。それだけ自分をさらけだしている曲だし、感極まってしまったんだろうなと思っていたら、そんな自分を笑い飛ばしてまた歌い始めた彼女が、再び声を詰まらせました。
そこで彼女は見るからに慌てふためいて、妊娠していると口走ってしまったのです。
大歓声に包まれた後は、いつも通りの圧倒的な歌唱力で、最後までこの曲を歌いきりました。

歌い終えた後は、
「こんな形で発表するつもりじゃなかったのよ!でも泣き出しちゃったし!みんなに何か変なクスリでもやってるんじゃないかって思われたくなかったから。今日はホルモンが出まくってるの。
でも何も問題はないのよ、全て絶好調よ!」
と説明して、場内に暖かい笑いを巻き起こしていました。
それから、
「どうしよ、次の曲、超悲しいわー。お願い、一緒に歌ってね」
と言って歌い始めたのが「ビコーズ・オブ・ユー」。
ケリー自身が作詞作曲した彼女の代表曲の一つで、私が勝手にケリーに共感を抱いてさらにファンになった曲。
この2曲が並んでいることには意味があって、
2005年に「ビコーズ・オブ・ユー」を歌っていたケリーが、
2015年に「ピース・バイ・ピース」を歌えるようになったこと、
それ自体がとても感動的なストーリーになっているのです。

 

ケリーの両親は彼女が小さい頃に離婚していて、ケリーは、母親が男性を信じるのに苦労しているのを見て育ちました。その気持ちを包み隠さず歌にしたのが、「ビコーズ・オブ・ユー」。

「あなたを見ていたから
信じることが難しくなってしまったの
私自身だけでなく、周りのすべての人達を
あなたを見ていたから
私は怖がっているの」

 

2011年、5作目のアルバム『ストロンガー』のリリース前に、
私はケリーの住むナッシュヴィルで取材をする機会を得ました。
そして取材の最後に、ものすごく緊張しながら、
「ビコーズ・オブ・ユー」が大好きな曲であることを伝えてから、とても個人的な質問をしました。

「私も問題がある家庭で育ったので、結婚とか、どこかで怖がっている気がするんです。あなたはどうやって乗り越えたんですか?」

ケリーは持ち前のカラっとした明るい声で、私の緊張を吹き飛ばすように言いました。
「私だって怖がってるわよー!
でもその怖れは、乗り越えるものじゃなく、生き抜いていくものなんだと思う。今だって大変よ。誰かとつきあっていると、良くない方向や疲れる方向に向かいがちなんだもの。
その中で、どうにかしようと頑張るんだけどね。
でも、本当に自分を理解してくれて、一緒に人生を歩もうとしてくれる人に出会えれば、そして、自分がその人と一緒歩もうとすることができればいいんだと思う

 

そう言っていた彼女は、彼女のマネージャーの息子のブランドン・ブラックストックと2013年の10月に結婚し、2014年の6月に女児(リヴァー・ローズ)を出産。
ケリーは取材で正直に語ってくれた夢を、叶えたのです。

そして生まれたのが、「ピース・バイ・ピース」です。
「ひとつひとつ
彼がもとに戻してくれた
私が信じる心を
男性は優しくなれる
父親はずっと一緒にいてくれる」


Kelly Clarkson - Piece By Piece (Audio) - YouTube

この2曲だけで、恋愛映画が作れそうな素晴らしいストーリー。
それが実話で、ファンがその物語を共有できたということが、本当に感動的だと思うのです。


ケリーはショウの間中、この失敗をずっと気にしていたようで、
「ショウの後、夫と話すのが心配だわー。まだ親戚でも知らない人がいるのにー!」
「でも、みんなにクレイジーな人だと思われたくなかったのよ。
まあ、私、ちょっとクレイジーだけどね。クレイジーじゃなきゃ、この仕事はやれないわ」と何度も話をぶり返しては、皆の歓声を浴びていました。

彼女の人柄がこの記事から少しでも伝わったら嬉しいのですが、
ケリー・クラークソンほど表裏のないスターには会ったことがありません。本当に素直で、自分を飾ろうとしない、嘘がつけない人。
アメリカン・アイドル』に出演していた時から、誰の目にもそれは明らかで、そんなケリーを、全米の人々は応援せずにいられなかったのです。
アレサ・フランクリンに及ぶのではないかと思うほどの見事な歌唱力も、
彼女が第一線のスターでい続けている理由ではありますが、
それ以上に彼女の人柄が、今も多くの人々に愛されている理由だと思います。
この夜、ステープルズ・センターに集まっていたのは、
ケリーと同世代の30代の男女だけでなく、
10代から50代まで、本当に幅広い年齢層のファンでした。
 
出産を終えたら来日公演を実現させて、日本の人達の心もわしづかみにして欲しいな。

 

Dreaming is Living!

Let's start loving yourself first!

 

 

 

私がグリーンカードに当選した理由

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日本にいなくても、お盆と終戦記念日に色々な思いを日本に馳せていました。
サマソニにも行きたくてたまらなかったな。
そんな中、ふっと思い出したことが。
そういえば私、永住権(グリーンカード)を当てたこと書いてなかった!

夢実現ブログなのに!

 

アメリカで生活したいな、と思っている人達にとって一番の壁はビザ(許可証)だと思います。

アメリカは、学生ビザ、就労ビザ、実業家ビザ等、なんらかのビザを持っていないと3ヶ月以上の滞在を許してはくれません。
自由の国と謳っておきながら、ビザに関してはかなりシビアです。


短期の移住でよければ、一番確実なのは留学。語学学校から始めて、そこから短大、大学と進めば、5年はアメリカで生活できます。
語学学校だけで5年位いる強者もいますが、英語の習得にそこまで時間がかかるのは明らかにおかしいので怪しまれ、語学学校は大抵2年で卒業させられます。
その後、短大や大学に行きたくない人、行く資金がない人は、専門学校を選ぶという手もあります。専門学校も、大学ほどではないけれどお金はかかります。
でも、学生ビザで滞在している学生には、週40時間までしか働いてはいけないという決まりがあるのです。学生の本分は、勉強だからね。
それに仕事を一杯して生活費を充分に稼ぎ、そのまま学生ビザでアメリカに居続けられては困る、

とアンクルサムは思っているのです。
その時間内のバイトで生活して学費まで出すのは、はっきり言って無理。


私はまず、1年以上は暮らせる貯金を持って学生ビザで始めて、音楽ライターの仕事と寿司屋のウェイトレスのバイトで食いつなぎ、
学生ビザではもう絶対これ以上いられない、という状況になってから日本に一時帰国。
そして、ライターの仕事のコネクションを使ってジャーナリスト・ビザを取得し、またLAに戻ってきました。
さらっと書きましたが、むちゃくちゃ大変で、むちゃくちゃストレスがたまる道のりでした。
私は一応、ちゃんと移住計画を建てていたつもりで、
日本の大学卒業後に雇って下さった超いい会社を1年で辞め、結婚適齢期に留学したんです。
数年で国際結婚できるだろうな、だって私、売れ時だし。みたいなノリでした。
……甘かった。果てしなく甘かったよ。
この間、本音は学生じゃなくてただアメリカに住みたいという思いで留学していた友達の多くがどんどん帰国していきました。
移住したい人たちにとって、本当に本当に、適切なビザ取得は大変なんです。

私は音楽ライターの仕事をしていたおかげでジャーナリスト・ビザが取れましたが、これはアメリカでジャーナリストの仕事を行うために発行されるビザで、それ以外の仕事をすることは禁じられているので、
その間ちゃんと生活していけるだけのお給料を払ってくれるスポンサーとしての会社が必要になります。
私の場合、一時帰国した際に、本当にラッキーなことにスポンサーになって下さる会社が見つかったので(今も死ぬほど感謝しております)、
その会社を通してビザを申請し、3年のビザが取れました。申請すれば必ずもらえるものではないので、ラッキーでした。
さらに3年、というのもラッキーで、1年しか降りない人もいます。その場合、切れた時点でまた帰国して、申請しなおさなければなりません。
そのジャーナリスト・ビザの期限があと1年半ほどになった時、私はまた不安に駆られました。
こうしてビザに頼ってアメリカに住んでいる限り、いつもビザの心配をしなければならないのです。
同じ会社がまたスポンサーになってくれるとは限らないし、なってくれてもまた取得できるかは分からない。

そこで私は初めて、永住権抽選に応募したのです。
……っていうかそんなにアメリカ生活が夢だったんなら、日本にいる時から応募すりゃあいいじゃない(どこからでも応募できます)、と思うかもしれませんが、
私はそれまでくじ運が全くなくて、当たらないだろうと頭から思い込んでいたんですね。
あと、ぼーっとしてるんで締め切り関係が非常に苦手で、毎年気づくと応募締め切りを過ぎているんです。

その年も、応募しよう、と決めた割にはやるのがギリギリで(代行している会社もありますが、英語さえ読めれば自力で応募できます)
たしか10月の応募最終日の締め切り時間の1時間前に、スッピンのやばい顔の写真を張りつけ、ネットで送りつけたのです。

当たったらいいなーとは思っていたものの、そんなに期待はしていませんでした。

 

そして翌年4月、郵便受けに大きな封筒が入っているのを見つけました。
まさか! と一瞬硬直し、ドキドキしながら封を開けてみたところ……
「永住権に当選しました」との通知でした。
  

叫びましたよ。バカみたいにね。

 

それで、肝心のなぜ当たったのかという理由ですが
 ラッキーだったから
これに尽きると思います。だって、くじだし
それ以来、私は友人知人の間で「超ラッキーな人」に変わりました。

もう一つの大きな理由は、馬鹿げてると思うかもしれないけど、
 応募したから
ですよね。応募しなかったら、一生当たらないんだから。
くじ運がないなんて勝手に思い込んでないで、さっさと応募するべきだったんですね。
 
永住権に当選してから「当選したんです」という話をすると、
「私も!」、「友達で当たった人知ってる!」など、結構な頻度で当選した日本人の話を聞くようになり、
結構当たるんだな、と思うようになりました。

当時、私は30半ば。
もしも本当の本当はランダムなくじ引きじゃなくて、いちいち書類を見て選んでいたとしたら(絶対そんな時間ないと思うけど)
「こいつ30半ばでシングルでこんな顔だよー。しょーがねーなー、救ってやるか」
と、思ってくれたのかもしれませんね。
 アンクルサムさん、ありがとう♡

 

Dreaming is Living!

If you wanna win it, try it!!
当てたいのなら、まず応募!!

 

マリリン・モンロー

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LA時間の昨日、8月5日は、マリリン・モンローの53回目の命日でした。

「はじめまして」で少し触れましたが、私がロサンゼルスに移住したきっかけは、マリリン・モンローに憧れたからです。
10代の時に深夜のTVで彼女主演の『七年目の浮気』を見て、一目で恋に落ちました。

そして私の片思いは、今でも続いています。死んでも続くだろうと思います。
女優として、古今東西、誰にも放つことのできないオーラをまとってダイアモンドのように輝いていたマリリンの姿と、父親を知らず、母親も育児ができる状態ではなかったために、親戚の家や孤児院で育ったという彼女の生い立ちは、

当時家族のことで悩んでいた私に、言葉では言い表せないほどの希望を与えてくれました。
この世にいない人にそれだけの影響を受けるというのは、ものすごく奇妙なことだと思うけれど、マリリン・モンローに出会わなかったとしたら、今の私はありません。
そして、彼女はもういないのに、少しでも側にいたいという思いがあったから、私はロサンゼルスを住む場所に選んだのです。

 

ロサンゼルスのウエストウッドという場所にあるWestwood Village Memorial Parkに、マリリンは眠っています。
緑が美しい公園のようなこのお墓は、マリリンの他にも数々の有名人の墓碑があり、毎日のように観光客が訪れる知る人ぞ知る場所。
そして1982年以来、毎年8月5日に、マリリン・リメンバードというファンによって創設されたファンクラブ(www.MarilynRememberd.org/このHPから誰でも加入できます)が、追悼会を行っているのです。
今年も100人を超える様々な年齢層のファンが集い、マリリンが出演した映画に出ていた女優さんや、マリリンの写真家の娘さんなどがゲストとして招かれて、それぞれにマリリンに対する特別な想いを語ってくれました。
ここに来る度に、ファン一人一人の胸に宿るマリリンの存在の大きさを実感し、胸が熱くなります。

 

マリリン・モンローは、映画女優になるという夢について、こんな風に語っています。


昔よく夜のハリウッドを眺めながら、思っていたの。

私みたいにこうして一人で座って、映画スターになることを夢見ている女の子達は数えきれないほどいるはずだわって。

でも、彼女達のことは気にしない。

私は、誰よりも熱く夢を見ているから。
(I used to think as I looked out on the Hollywood night,

There must be thousands of girls sitting alone like me,

dreaming of becoming a movie star. But I'm not going to worry about them.

I'm dreaming the hardest.

 "the hardest"は、“一番一生懸命に、熱心に”、という意味ですが、悩みに悩んだ末、“誰よりも熱く”がはまるような気がしたのでこの訳にしました。中山美穂さん、インスピレーションをありがとう)
 
売れる前の彼女は、ご飯代を削って演劇クラスの授業代にしていたこともあったそうです。
セックスシンボルと呼ばれたほどの彼女の容姿は、今では普遍的なアートとなって、Tシャツやポスターや洋服のデザインとして、世界中に溢れています。だからハリウッドをドライブしていると、毎日必ずといっていいほど、マリリンの顔を見かけます。

そんな女優は今も存在しないし、これからも存在しないでしょう。
でも私は、彼女の女優としての才能と、常にさらにいい女優になろうと熱く努力していた生き様を、何よりも尊敬しています。

マリリンは偉大な女優でした。

ミュージカル映画の歌声や踊りは本当に唯一無二で素晴らしいし、コメディ映画で発揮するユーモアのセンスは、本当に見事でした。

『百万長者と結婚する方法』、『紳士は金髪がお好き』、『お熱いのがお好き』、『ショウほど素敵な商売はない』、『ナイアガラ』、『バス停留所』、名作を挙げたらきりがないですが、機会があったら、ぜひ鑑賞してみて下さい。


もし夢があるなら、誰よりも熱く、その夢を見よう。
マリリン・モンローのように。

 

Dreaming is Living!

Let's dream the hardest!!!

ニッキー・ミナージュ

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先週、テイラー・スウィフトツイッターでニッキー・ミナージュに対して謝罪をし、ちょっとしたニュースになりました。

そもそもの発端は、2015年MTVヴィデオ・ミュージック・アウォードの最も重要な賞である“ヴィデオ・オブ・ザ・イヤー”にノミネートされなかったニッキー・ミナージュが、「なんでアナコンダが“ヴィデオ・オブ・ザ・イヤー”にノミネートされないんだ!」という数々のファンの怒りのツイートに対する返答として、
「私が違う“種類”のアーティストだったら、アナコンダはベスト・コリオグラフ(振り付け)とヴィデオ・オブ・ザ・イヤーにもノミネートされてたはずよ」
「とてもスリムな女性を称賛するようなヴィデオだったら、“ヴィデオ・オブ・ザ・イヤー”にノミネートされるんでしょうね」
とツイートをしたことでした。

 “ヴィデオ・オブ・ザ・イヤー”にノミネートされたのは、テイラー・スウィフト(feat.ケンドリック・ラマー)「バッド・ブラッド」、ビヨンセ「7/11」、エド・シーラン「シンキング・アウト・ラウド」、マーク・ロンソン(feat.ブルーノ・マーズ)「アップタウン・ファンク」、ケンドリック・ラマー「オールライト」、の5作品。

 ニッキーのツイートを見た「スリムな女性」テイラーは、自分が攻撃されたものだと思いこみ、以下のツイートをしました。

「私はこれまでずっとあなたが大好きで、応援してきたわ。女同士で争うなんて、あなたらしくない。たぶん男性アーティストの誰かが、あなたノミネーションを奪ったんじゃないかしら」

 でもニッキーは、全くテイラーのことを言っていた訳ではなかったのです。彼女はただ、「アナコンダ」が、痩せている女性とは真逆の「超グラマーな女性」を称賛するビデオだったことを指摘しただけです。

 ニッキーはテイラーに返事をしました。
「え? あなた、私のツイートちゃんと読んでないわよ。私はあなたの名前なんて一言も出してない。あなたのことは大好きなのよ。でも、この件ははっきりさせてね」

 そして、これを読んだテイラーがニッキーに謝ったのです。
「私は自分が挑まれていると思ってしまったの。私は勘違いしてしまって、誤解してしまって、間違ったことを言ってしまったわ。ごめんなさい、ニッキー」
 これを受けて、「そう言ってくれてとても嬉しいわテイラー、ありがとう♡♡♡」とニッキーが再び返事をし、二人は和解しました。

 その翌日の7月24日(金)に、「グッド・モーニング・アメリカ」という朝のニュース番組で、ニューヨークのセントラル・パークにて無料ミニコンサートを行ったニッキーは、テイラーと電話で話をして完全に仲直りしたと語りました。

「私があのツイートをした理由は、インスタグラムにも載せたんだけど、過去に“ヴィデオ・オブ・ザ・イヤー”にノミネートされたヴィデオの傾向をチェックしたら、おかしなことが起こってることに気づいたからよ」

つまりニッキーは、これまでにこの賞を獲得したアーティスト達が、ニッキーとは違うタイプの「ポップ・アーティスト(ここには白人という意味も含まれていると思います)」である傾向があったことを伝えようとしていたのです。

「「アナコンダ」は私達の文化にすごく大きな影響を与えたし、それに、Vevoのヴィデオ再生回数記録を破ったのよ。だから“ヴィデオ・オブ・ザ・イヤー”にもノミネートされるべきだったと思う」

 これは本当で、「アナコンダ」が出たことで、去年アメリカでは「大きなお尻」がブームになったのです。メーガン・トレイナーの「オール・アバウト・ザット・ベース」が大ヒットしたのも、ニッキーがその下地を作ったからでした。その影響は音楽シーンにとどまらず、今年の春、「Lane Bryant」というプラスサイズ(標準よりも大きい体のこと)のブランドが、ランジェリーラインの新広告をプラスサイズのモデルのセミヌード写真と「私はエンジェルじゃない」というキャッチコピーを使って全国展開したりもしています。ニッキーの「アナコンダ」は、従来のスーパーモデル体型が一番美しいというアメリカ社会の歪んだ概念を一気に覆す社会現象を作ったのです。

「私はね、私達は(痩せている体と豊満な体の)両方の女性のイメージを表現するべきだと思うの。一方だけがもてはやされる社会はおかしいと思う。それによって、すでに自信がない女性達が、もっと自信をなくしてしまうわ」

アナコンダ」が“ヴィデオ・オブ・ザ・イヤー”にノミネートされなかったのは、個人的にはニッキーの体型とヴィデオの内容よりも、あまりにも卑猥すぎる歌詞(「俺のアナコンダ(訳は書けないので想像してね)はデカ尻じゃなきゃやりたくねー」という男性の声で始まり、ニッキーもFuxkやBitxhを連発!)にあったのだろうと推測していますが、それでもこの曲が社会に与えた多大な影響を考えると、“女性ヴィデオ・オブ・ザ・イヤー”と“ヒップ・ホップ・ヴィデオ・オブ・ザ・イヤー”の2部門のノミネートだけでは、過小評価だと私も思います。


Nicki Minaj - Anaconda - YouTube


ニッキー・ミナージュの夢は、何だと思いますか? 
ニッキーが、あるTVドキュメンタリー番組で宣言したことなのですが、こんな夢を語る女性アーティストを見たのは史上初でした。

「私は私の帝国(エンパイア)を築きたいの」

 帝国だよ! 世界一のラッパーになりたい、とかじゃなくて、帝国築いちゃうんですよ。このスケールの大きさ。野心の塊のようなコメント。素晴らしいです。 
「エンパイア」というのはブラックミュージックのアーティストが良く使う言葉で、同名のドラマが去年大ヒットしました。音楽ビジネスのみならず様々なビジネスを展開し、一つの国を築く位のビジネス王になるという意味です。それを達成したアーティストの筆頭が、ビヨンセの夫、ジェイ・Z。彼は現在ロック・ネイション、ロック・ネイション・スポーツ、スター・ロックのCEOとしてジェイ・Z帝国を築いています。

「男達がやれているのに、なんで女のあたしがやっちゃいけないの、あたしはやるわよ」

 現代は男女平等になったとか思っている人もいるかもしれないけれど、実情はまだまだ男性が女性よりも優遇されていて、ビジネスでもより成功しやすい状況にある。
その分かりやすい縮図がヒップホップ界で、ヒップホップは他の音楽ジャンルと比べると、いまだに非常に男社会。それはヒップホップという音楽が、攻撃的だったり、挑発的だったり、過剰に性的で時に下品だったりすることにも関係しているのだと思いますが、「なんでヒップホップは男のMCばっかりなのかなあ、リル・キムミッシー・エリオット以降、いい女性MCが出て来ないのはなんでだろう」と長年思っていたところ、2010年にいきなり登場したのがニッキー・ミナージュでした。

 女性ラッパーというポジションは大きな需要があっただけに、ニッキーはポップからR&Bまで様々なアーティストの曲でフィーチャーされまくり、それらの曲と自分自身のシングルが『ビルボード』の全米シングルチャートで同時に7曲ランクインされるという記録を作って、一気にトップクラスのアーティストに登り詰めました。当時のニッキーはピンクのカツラとガン黒ギャルのようなメイクがトレードマークで、ちょっとゲテモノ扱いされていた面もあったけれど、あれはセクシーさを売りにせずに男社会でのし上がって行くためのニッキーの戦略だったのだと思います。
 そして今、30代になった彼女は、完全にナチュラルメイクで、髪も服も黒で統一し、大人のセクシー路線に移行。3枚目となる新作『ピンクプリント』からは、全米シングルチャート2位の「アナコンダ」に続いて「オンリー(feat.ドレイク&リル・ウェイン)」、「ザ・ナイト・イズ・スティル・ヤング」、「フィール・マイセルフ(feat.ビヨンセ)」とシングルヒットを連発して絶好調。現在は全米アリーナ・ツアーに乗り出しています。彼女は音楽ビジネス以外にも、お酒(Myxモスカードリンク)や香水(新作ピンクプリントは9月発売)といったサイドビジネスを成功させ、映画女優としても活躍し、確実に「ニッキー帝国」を築きつつあります。

 男だけでなく何者も怖れないような圧倒的な強さを見せながらも、『ピンクプリント』では別れた男性を想う弱い面をさらけ出す切ない曲もこなしていて、ふとした時にみせる笑顔がすごくキュートで、女性として本当に本当に魅力的なニッキー・ミナージュ。私が今、誰よりも敬愛しているアーティストです。

 冒頭の写真は、6月末にステープルズ・センターで公演を行った時のもの。18000人の観客を総立ちで熱狂させ続ける最高のショウを披露してくれました。
 これまで2度の来日公演を行っているニッキー・ミナージュですが、ちゃんと曲を聴いたことがないという人も多いのではないでしょうか。
 ニッキー・ミナージュなしに現代の洋楽は語れないぐらい大きな存在なので、ぜひYoutubeで色々聴いてみて下さい。

 あまりに好きすぎて長い記事になってしまいましたが、読んで下さってありがとう。

Dreaming is Living!
Keep on dreaming!!

ネイト・ルイス(from FUN.)

ぼーっとしてたらあっという間に7月半ばになっちゃった……。
日本はそろそろ音楽フェス・シーズンですね! 
一度に様々なアーティストが見られるフェスはアメリカでも大人気ですが、近年の日本のフェスの充実っぷりはものすごく羨ましいです。

 

今日の記事は、今月末のFUJI ROCK FESTIVALに出演する予定のネイト・ルイスです。
ネイトは「伝説のヤングマン〜ウィー・アー・ヤング」でグラミー賞を受賞したバンド、ファンのフロントマン。
ピンクとのデュエット曲「ジャスト・ギヴ・ミー・ア・リーズン」も大ヒットした現代を代表するシンガーソングライターの一人です。

 そんな彼が、先月初のソロ・アルバム『グランド・ロマンティック』を発表。現在はセカンド・シングルの「アーハ」がヒット中。


Nate Ruess: AhHa (Visualizer Video) - YouTube

 

『グランド・ロマンティック』発売前に、ロサンゼルスの高級住宅地にあるネイトの素敵な自宅にて、『インロック』の取材を行いました。
その時に彼は、たまたまちょうど私が次に書きたいなあと思っていたことを、ばっちりコメントしてくれたのです。
それは、
負けず嫌いは夢を叶える
ということ。

夢を持っていると、それをつぶしにかかる人に出くわすことが多々あります。
その人はその夢を聞いて、「あなたには無理だよ」と言うのです。
別に悪意はなく、逆によかれと思ってアドバイスしている人もいるのでしょうが、
そういう人達の言葉は、
全て無意味です。


例えば歌手になりたかったとして、音楽の先生に「あなたには向いていない」と言われたとする。
でも、音楽の先生はあなたではありません。

あなたの夢を知っているのは、あなただけです。
人が夢を持つ時、例えばそれが仕事だったとしたら、それはあなたが好きだからやりたいこと。
好きになる、ということはその時点ですでにそれが得意だということです。
たとえどんなに音痴だったとしても、ヘタウマのロックとかパンクとか、歌手になる道はいくらでもあります。

ちなみに私が尊敬するのアーティストの一人がオジー・オズボーンなのですが、彼の声はむちゃくちゃヘン。

  
それが先生であれ、先輩であれ、親であれ、あなたが成功者だと思っている人であれ、
彼らが「あなたには無理だよ」という時、多くの場合、

彼らが「私にはそんな大それたことは無理だ」と思っているから、
それをあなたに教えようとするのです。
たとえば私がアメリカに移住したいと言った時、私は親から猛反対を受けましたが、
それは親自身に、「一人でアメリカで生活することなんて不可能」という思いがあったからです(他にも色々あったとは思うけど)。

 あなたは、彼らではありません。

  

そして、グラミー賞を獲得したネイトですら、「無理だよ」と言われたことがあったのです。

「子供の頃、「お前は歌えない」って言われる度に、腹の中で喜んでた。

僕は歌えるって分かってたから。
それに僕は競争好きな人間だから、「お前にはできない」って言われると、

全力をかけてできるってことを見せようとするんだよ。
でも、僕はラッキーだった。音楽をすごく愛していて、アーティストになりたいってことも分かってた。音楽を愛しすぎていたから、諦めなかった。
誰かに一度「お前にそれはやれない」って言われたぐらいで、諦めることなんかできないよ

ネイトは、誰かに「歌えない」と言われる度に、自分の車でドライブしながら色々な曲に合わせて歌の特訓をしたのだそうです。
それでも彼は、20代半ばまで自分の声が好きになれなかったのだとか。
そして今回のソロ・アルバムを完成させて初めて、自分の声が大好きになれたと語ってくれました。

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  誰かに夢を否定されたら、それをバネにして、

  さらに夢に向かって前進しましょう

 

ファンでもメインソングライターは彼なので、『グランド・ロマンティック』は、すでにファンが好きな人にとってはたまらないアルバムだと思います。

ファンを知らなかった人も、気になったらチェックしてみて下さいね。

 

Dreaming is Living!

Enjoy this wonderful summer season!

 

シェール

 それを言われてしまったら、もう聞くことないです。
取材中、そう思う答えがあります。
でも多くのスターは、大物であればあるほど、「成功した秘訣」を聞かれると同じことを言うのです。

 

私はただ、ラッキーだった

 この答えを聞いて私が一番驚いたのは、ハリウッド女優としても成功しているシェールです。

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 シェールは2013年の9月に、なんと12年ぶりの新作『クローサー・トゥ・ザ・トゥルース』を発表。
日本盤の発売前にTV取材の通訳をしたのですが、
当時60代後半のシェールは、美しい顔に栄える鮮やかなオレンジ色のロングヘアーで、大スターのオーラで輝いていました。
セクシーで貫禄満点のディーバを勝手にイメージしていたのですが、
独特の優しい雰囲気を持った人で、時折少女のような愛らしい面も見せてくれて、私の緊張を解いてくれました。

 取材当時、60年代から2000年代までコンスタントにトップ5入りするアルバムを発表してきたのは、全世界で彼女ただ一人。
 その長く巨大な成功の秘訣を、シェールは
「全然、分からないのよ。本当に、ラッキーだったんだと思うわ。ある程度才能も必要だろうけれど、それ以上に運よ
 と言い切りました。

 いやいや、あなたのラッキーはとんでもないレベルのラッキーですね!

 でも彼女は、心からそう思っているのです。
 そして、『クローサー・トゥ・ザ・トゥルース』は全米アルバムチャート初登場3位を達成。彼女は2010年代にもアルバムをトップ5入りさせて、誰にも手の届かない自己の記録を更新しました。
 
 かつての私は、「幸運だったから」という答えを聞く度に、

「自分の力だけでは達成できなかったと謙遜しているのだな、いい人だ」と解釈していたのですが、いつしか、

謙遜ではなくて、本当に幸運だと思っている
そして実際に、その人はとても幸運に恵まれている
ということに気づきました。

 

 シェールは華々しいばかりの人生を歩んで来た人ではないんですよ。子供の頃からありえないほど波瀾万丈でした。そして、ありえないほど幸運だったのです。
 
 冒頭の写真は、2014年夏のロサンゼルス公演時のもの。18000人収容のステープルズ・センターが何世代にも渡るファンで満杯でした。
 シェールの声とパフォーマンスは人間国宝級なので、近々日本の地でショウをやっていただけることを願っています。


Cher - Believe - YouTube

運というのは、目に見えない不確かなもの。
でも、面白いことに、「運がいい」という概念は、世界中の人々に通用します。
 目に見えないから、運の良し悪しは、起こっていることに目を向けた自分が判断して決めている。

それを思うと、考え方次第で、誰でも「ラッキーな人」になれそうですね。
 
Dreaming is Living!
Have a LUCKY weekend!